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もう何もいらない

新宿駅に人間が溢れかえっている。黒や灰色の服を着て、肩を小雨で濡らしているビニール傘をもったサラリーや、ぐでんぐでんに酔っ払った男、女が溢れかえっている。酔っ払いたちは普段相当な不満でも抱えているのだろう。ぐでんぐでんな大人の男が、女にもたれかかり、2人の男がその男の両脇を抱えている。女は何故かその男にぴったりと体をくっつけて、ズボンを持っている。何だ、この男はこの新宿駅でその汚いちんぽを晒そうとしていたのか?俺はそのちんぽに唾吐いてやりたいよ。早く脱げ、脱げよ。とかは思わなかった。ただ淡々とそのやり取りを無視していた。私も黒い服に身を包んでいた。恐らく私も東京の空気を吸いすぎたのだろう。何も悲しくない。ただ、気分が悪かった。酔っ払いとカップルのようなことをしている人間以外は、私のように怪訝な気持ちを抑えながら無表情で、人の間を書き分けて歩いている。気分が悪い。それだけだ。
 普段は気にもしない人間の表情を見ながら歩いてみる。どこかで見たことのあるような顔も沢山あった。綺麗な顔をした人も沢山居たが、みんな同じような顔をしていた。サラリーのおっさんと良く目が合った。目が合った瞬間、いや、私が彼らの顔を見た瞬間、彼らのセックスパターンを想像していた。そしてそれに頭の中で唾を吐きかけた。乳首を舐める顔、腰の動かしかた、全てがリアルに想像できた。どんな表情をして、どんな風に私を食べるのか分かった。何人かと目が合う度、私は彼らを睨みつけて唾を吐いた。この中で見た目は私が一番汚い人間だ。

 町田駅を降りて、私は少しよろめき、持っていた傘が何かに挟まって私は、歩みを阻まれた。私は急に頭に血が上るのを感じ、その傘を振り回してわけも分からぬ言葉でわめきたい気持ちで一杯だった。暴れたかった。無性に暴れたくてしかたなかった。だが、私は傘を持ち直してただ歩いていた。暴れたくてしかたのない感情は、誰にも気づかれることは無いだろう。もちろんメールの相手たちにも。ふと下を見ると、靴紐もほどけていた。そのままで歩いて居たかったが、階段からいつも転げ落ちて死ぬんじゃないか、という妄想を抱いている私は、靴紐を結んでしまった。情けなくて、笑えてきた。みんな死ねばいいと思った。本気で念じた。みんな死んでしまえ。死ね、死ね。だけど、靴紐を結んでいる私には、それを念じている価値など無かった。私は靴紐を結んでいる。私が死にたくないからだ。そんな人間に、死ねと念じる資格は無い。私が死ねばいいのだ。
 乗り換えの電車に乗り込み、さっき読んでいた短編小説の続きを読み始めたが、何だが具合が悪くてふと周りを見渡した。すると、どこかで見たことの有るような男が乗っていた。今頃はカナダに居るはずの男だった。私はじっと彼の顔を見つめていた。確かに彼だった。バイト先での服装しか知らなかった私だが、彼の特徴的な眉間と額の中心にある大きな黒子は彼のものだった。彼意外にはありえなかった。私は、バイト先で彼に優しくしてもらっていたことを思い出した。人見知りの私に、彼は積極的に話しかけてくれた。落ち着いた物腰の話し方に私も安心して、どんどん話しかけるようになった。バイト先の人には連絡先を教えなかったが、彼には教えていた。彼は私の心配をしてくれて、何度かメールをくれた。私がバイトを辞めた後でも。ただし、バイト先以外で彼に会うことは無かった。
 彼は夕方から朝まで働き、カナダに留学するための資金を必死で貯めていた。私も学費を払うために働き始めたのだが、寮の厳しい門限と、演劇の両立が出来ずに2ヶ月で辞めてしまった。彼のことがその後も気になっていた。メールが来ると嬉しかった。だが私から送ることは無かった。バイト先以外の彼を知らなかった私は、彼と他愛も無いメールをすることが出来なかった。何も知らなかった。そしていつしか彼からメールは来なくなった。丁度彼がカナダに行く、と言っていた時期だ。恐らくもう、会うことも無い、と思っていた。しかし、彼が今私のすぐ近くにいる。話し掛けようと思ったが、中々できなかった。何て声を掛けたらいいのだろう。忘れていたらどうしよう。私は、読んでいた短編小説を閉じ、かばんの中にしまって、炭酸水を飲んだ。彼に背を向けて。
 私は彼の視線を感じていた。背中越しに、彼が私を見ているのを横目で確認した。私は深く帽子を被っていたから、彼と目が合うことは無かった。だけど、彼の顎の向きが変わったのを確認した。確実に、彼は今私を確認している。それが勘違いだとは思わなかった。別に恋をしているわけではないし、恋の感情が復活したわけでも無かった。ただ、一度素敵な人だ、と私が感じ、彼もまた私に優しくしてくれていたことが全部無くなってしまうのが嫌だった。話しかけて、久し振りです。の一言を笑顔で言いたかった。それだけだった。
 私は彼に背を向けながら、ぐるぐると考えていた。気持ちが悪くて今にも吐きそうだった。ピシャっと音がした。優先席に座っていた女の人が下を向いていた。下を見ると赤ワイン色の液体にリゾットみたいに何かが混じっている液体が広がっていた。ワイン色のゲロだった。その女の人が吐き出した瞬間、私は、彼女が私の変わりに吐き出してくれたのだと勝手に思った。私は助けようか、と思ったが、私が彼女に何かしてあげることが見つからなかった。ハンカチもテッシュも持っていなかった。隣の老人風のサラリーの黒い革靴に飛び散ったゲロを拭くだけのテッシュも持っていなかった。私が彼女に何をしてあげればいいのか、分からなくて、ただ見つめていた。傍に行って、声をかけてあげることも出来ず、周りの人間と同じように、私はうずくまる彼女を見ていた。彼女はうずくまったまま、顔を上げようとしない。彼女は今、きっと、恥辱感と気持ち悪さと、孤独感で一杯だろうと想像する。

彼も彼女を見ているだろうか。それとも見ていないのだろうか。

 次の駅で彼女は急いで駅を飛び出した。おええええええええええええええええええええええええええええええええええええという音が同時に聞こえた。彼女がいなくなった車内で、皆彼女の残していったゲロを見ていた。ゲロを引っ掛けられたサラリーは真っ直ぐ前を見ていた。まるで抜け殻のようだった。抜け殻のようにただ真っ直ぐ前を向いていた。無理矢理綺麗に座らせられている子供のような不自然な背ののび具合だった。彼女がさってドアが閉まると、さっきまでは匂わなかったゲロ特有のすっぱいにおいが私のところまでやってきた。皆そのゲロの匂いには何もコメントしない。一番嫌悪している匂いについては誰もコメントしない。それはタブーだと知っているからだ。「ゲロくせぇ」とこの場で発言することはタブーであることを皆暗黙の了解として認知したからだ。
 淵野辺に到着。彼も当然のように立ち上がった。やはり間違いではなかった。彼が帰国していたのだ。そして今ドアが開くのを私の真後ろで待っている。電車を降りて階段を登ると、私はすぐに彼の後姿を見た。今更何を話しかけようというのだろうか。しかし、話しかければきっと彼はあいさつぐらいはしてくれるだろう。それだけでいいのだ。何を気にしているのだ。彼が遠くなっていく。私は自転車をとりにコンビニに行く。彼は真っ直ぐ歩いていく、私の帰り道を。私がその道を自転車で走っていると、かなり遠くに彼の姿を見た。彼もまた真っ直ぐ歩いている。同じ方向に向かっている。私は自転車ですぐ彼に追いつき、彼を追い越した。もうこれで会うことは無いだろう、と思った。彼と出会うこと、それは運命だったが、それをどう変えるか、というのは自分で変えられる。私は彼に声をかけないことを選んだ。そして彼もまた。目の前の信号が赤になった。いつもなら無視して渡るところだが、珍しく車が走っていた。そして彼が私の隣に並んだ。数秒のことだった。私は隣を見た。彼は私のほうを振り向かなかった。彼は歩き出した。私はまた彼の背中を見た。そして、私も走り出した。すぐに追い越した。彼は今、私の背中を見ているはずだと思った。
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by playgirl69 | 2007-02-18 01:39 | 日常