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子供に芝居をみせることのたいへんさ

わたしは、親子向けだからといって、

「楽しくて、泣けて、ハッピー」

な作品を書きたくはない。

私は、子供たちに向けて書くからこそ

「教える」ような

「押し付ける」ような

そいういう、類のものは書きたくない。


「考える」ような芝居が書きたい。



そして、今回、子供達が、芝居中、私といっしょに目をつぶって考えたりしてくれたみたいで。。。

ほんとう。よかった。

「死ぬってなんなの?」

「私ってなんなの?」

「おかあさんと、わたしって?」

「愛ってなに?」

「正しいってなに?」

っていうことを、少しでも考えてくれたらうれしい。

子供たちにも向けたけど、本当は大人に向けて書いた芝居だったから、アンケートに

「考えさせられて、ジーンとしました」

っていう言葉があったのがうれしかった。

少しでも。少しでも。

もちろん

「子供には難しすぎたのでは?」

という意見も多かったのは事実。

「子供達には難しいと思ったけど、もしかしたら、子供達にもわかるかも」

って意見もあったのは事実。


でも、何が本当に起こっていたのかは知らない。

うん。


子供に向けて芝居をやる、っていう怖さを痛感しまくった。

彼らは純粋で、そして、全てを見抜いてしまう。

大人の目なんか全然怖く無いんだな。

彼らの目って、ほんとうに、凄い。



ああ。


久し振りに役者をやり、役者って難しいなーって再確認。

んでもって、演出しながら役者はもう、やりたくないなーって思いましたよ。


専念したいですね。役者をやるなら。たぶん、お誘いとか無い限りやらないと思うけど。




でも、子供に芝居を見せる、っていう体験ができてよかった。
こんなに、こんなに、ストイックで正直な観客いないよ。
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by playgirl69 | 2007-12-23 23:17 | 表現

魔法の美術館開館!

絵画が動き出す、魔法の美術館。
その1つの作品を書かせていただきました。

実際にある絵画をモチーフにしているのは、なぜか私だけ。。。
でも、私らしい作品になりました。
お芝居自体はこってこての、子供向けの演技ですが、内容は大人向けです。

よかったら、12月23日、13時からエントランスにて始まりますので。


以下ネタバレ。
(当日パンフレット内容)


「母と息子にレクイエムを」


(あらすじ)
聖母マリアがイエス・キリストの亡骸を抱えてキリストの死を嘆いています。

マリアとともに長い間「絵」の中の住人としてイエスの死を悲しんでいた天使たちは、魔法によって目覚めます。

しかし、目覚めたときには、自分達が何をしていたのかを忘れてしまいました。

そこでマリアは、語り始めるのです・・・・・・





(作品解説)

この作品は、ミケランジェロの彫刻作品の「ピエタ」とラファエロの絵画「システィーナのマドンナ」をモチーフにしてつくられた、作品です。モチーフの1つ「ピエタ」とは刑にかせられて亡くなったイエス・キリストの亡骸を聖母マリアが抱いている、という構造の彫刻や絵画作品のことです。「システィーナのマドンナ(サン・シスト聖母)」は教皇シクトゥス2世、聖バルバラの間に、赤子のイエス・キリストを抱いた聖母マリアが立ち、その下に、天使が2人ひじをついてマリアとキリストを見上げているという絵です。この二つの作品はとても有名なのでご存知の方も多いと思います。

何故宗教画を選んだのか、という質問には「クリスマスなので」という他ありません。また、親子向けの作品を書きたいと思ったので「母と子」の関係である「聖母マリアと、イエス・キリスト」を題材にしようと思いました。「システィーナのマドンナ」の天使2人の客観的な目線が演劇的な関係性をつくり、また、子供のあどけない姿と冷静な目線の両方をもった存在、つまり、見に来てくれた子供達のメタファーとして、この作品では重要な役割になっています。

「死とは?」「生とは?」「母親とは?」「息子とは?」「愛とは?」この作品では、そういうことに重きを置いて書かせていただきました。当たり前を当たり前として片付けないで、もっともっと親子で一緒に色んなことを考えてもらえるような作品になったらいいと思ってつくりました。
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by playgirl69 | 2007-12-22 13:10 | 表現

私のお話。

今日も昨日も明日も明後日も、私はきっと生きていると思うんです。でも、それが確かなことじゃないことぐらい分かってるんです。でも私はそれでも明日や明後日を疑わないでそれらが当たり前にやってくるものだと思って生活しています。

死にたいと思うときは、世の中に絶望したときじゃなくて、世の中に私を残したい、感じさせたい、証明したいときなんだと最近強く思います。私という人間が「生きていた」ことを証明するには「死ぬこと」が必要なんだな、と。死ななきゃ私の存在や価値なんかに気がつかなかったんじゃないでしょうか。でも、私が死んだことによって受けるショックや、悲しみなんてものは一時的なもので、みんなそれを引きずって生きるわけも無く、皆、それを乗り越えて生きていくのです。それが、とても健康的な「生き方」ですからね。そうなんです。それでいいのです。私がたとえ自殺したとしても、あなたたちは死にません。それは当たり前のことです。そういうものなのです。私が手首を切っても、貴方たちは血を流すことはありません。それは当たり前なのです。そのようなものなのです。死ぬということも。私が死ぬということも。あなたには関係のないことなのです。

死にながら、今この瞬間死にながら人は生きている。細胞は死に、そして生まれ、死に、生まれる。皮膚は剥れ、再生し、剥れる。私達は、今死んでいる最中です。そして、生まれている最中です。私達は死んでいますし、生まれています。それが繰り返されていることが、「体が」生きているということなのでしょう。

私は、人を愛するということに自信がありません。私は人を愛することに自信がある人を信用できません。愛しているなどと私は一言も言った事がありません。「愛してる」と一度だけ聞いたことがあります。彼はとても苦しそうでした。私は笑いました。「まさかあなたがそんなことを言うなんて、信じられない」とさえ言いました。私は恥ずかしかったのです。私は臆病だったのです。私は言葉を恐れていました。言葉が作り上げようとする永遠を恐れていました。愛を疑っていました。愛を試していました。そして、それは愛ではなかったのだと気がつくのに随分と時間を要しました。愛されることが「愛」ではないということに気がつくには少し時間を要したのです。

私は確かに彼を愛していたのです。私は、確かに、彼を愛していました。彼は私を愛していたかはわかりません。愛は己の中にのみ存在するものであって、それは相手とは共有できないものなのです。私とあなたの見ている世界の色が違う様に、それはそういうものなのです。だから、私の愛はあなたには与えられないものなのです。感じることはできるかもしれません。想像することは出来るかもしれません。もしかしたら、体温のようなものなのかもしれませんし。違うかもしれません。何ゆえ、私が愛していたのかと言っているのかも、私には説明できません。私は愛していなかったかもしれないのです。私が言うことが全て正しいことだとは思わないでください。そしてそれが全て嘘だとも思わないで下さい。というよりも、嘘か真かを決めるのは自分自身でしかないと思って下さればそれでいいのです。それすらも疑ってもらって構いません。妄信はお嫌いなんでしょう?私は大嫌いです。

私は私を抱きたいのです。私は私を愛してあげたい。私は、私を救ってあげたい。私はそれが出来ないのです。鏡の前にいるあなたを見つめるとそんなことを思います。私は、決してナルシストではないのです。ただ、私を救えるのは私自身でしかないというこが言いたいのです。私を救えるのは私だけです。それ以外の誰かに救いを求めるとひどい目に合わされます。だいたいそんなものです。

気持ちが悪いのです。吐き出さないと。
気持ちが悪くて食事が喉を通らないのです、吐き出さないと。

正直私がネガティブだと思っている人がいるかもしれません。ここまで読んで「病んでるのかな」という感想を抱いた方には、もう、ここでこの文章を読むのをやめたほうがいいと此処で宣言をしたいと思います。

私は決して暗い気持ちでこの文章を書いているんのでは無いのです。




私は友人の幸福を喜びますし、また、軽く喜べないでしょう。私は、友人の死を、悲しみますが、またあるときは喜ぶでしょう。それは悪意の無い、温かな目で喜ぶでしょう。それは、彼女もそうだと思ってくれていました。私は、彼女の死を喜ぶでしょう。声を上げて、泣き叫びながら、「よかったね」と繰り返すでしょう。私は繰り返すでしょう。

痛みを受ける強さ、痛みを受け止める強さ、痛みを受け入れる強さを私は美しいと思います。痛みから逃げることなく、痛みに向き合い、痛みを感じながら生きていくことの強さは美しいと思うのです。美しいということは、本当に強く逞しくしなやかで、暖かいという意味だと、此処では理解していただけると文脈が理解できると思います。



私のことを、忘れてしまった人たちへ

私を忘れてしまった人たち、それは私が忘れてしまった人たちのことです。
私はあなたを忘れてしまいました。私が忘れられたように。



私を抱いた人たちへ

私を抱いたと思っている人たち、それは多いな勘違いだと思ってください。




私が愛した人たちへ

私が愛した人たちへは、何も言うことがありません。
私はただ、愛しています。だから何も言うことはないのです。
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by playgirl69 | 2007-12-18 06:38 | 自己

あー、二年ぶりに描いた戯曲がこれですか。

急いで描いたから、あんまり、かも。。。

あとで書き直すかも。

でも時間無いから、現場で直していくとおもう。


うぶー


キリストとマリアを使っていろいろと気持ち悪い暗い作品を書いた。
親子向けに。


ああ。


いいのかな。
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by playgirl69 | 2007-12-13 03:36 | 表現

私は演技ができない

俳優としての自分はとうの昔に死んでしまったのだが、今更それを強く実感した。

この間、少しばかり芝居をしたとき(と言っても、昨日の実験のことではない)、短い芝居を役者としてやったのだか、私は、とても気持ちが悪かった。練習をしているとき、相手が「人」でなくて「俳優」だったからだ。それが、私の呼吸を読み、私のセリフの間が変わるとやりにくそうにし、また注意し、自分のセリフが沢山あるところだと楽しそうにしていた「俳優」だったからだ。いや、「俳優のようなもの」だったからだ。

私は、嫌でたまらなかった。
私は、嫌でたまらない。
彼らとは同じ世界を生きることができない。
彼らは、各々の世界で生きている。私に融合しようと(俳優として)考えて私の呼吸を(俳優として)読もうとしているのだろうが、それは明らかに己のための(強いて言うなら、俳優のための)準備でしかない。吐き気がする。

そして、私自身もそうなっている瞬間瞬間や過去を思い出して嫌になる。傲慢で、自慰的な、排泄行為に没頭して快感を得ている。それを表現だなんて押しつけがましく人に見せようとするのだから性質が悪い。

だから、私は演技をもうしたくない。
そんな演技なんて糞喰らえだと思うからだ。

つまらない。
本当につまらない。

でも、そうじゃない俳優を見たとき、私は知らぬ間に感動させられてしまう。

私は、「俳優」ではなく「人間」が見たいのだと思った。



私の個人的な話でした。

これを他の人は否定するかもしれないし、異を唱えるかもしれない。いや、言ってくれたら本当にいい。だれも、言わないだろう。思うだけだろう。そんなもんだろう。
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by playgirl69 | 2007-12-12 21:19 | 表現

空間実験・人体実験

日常と非日常の境目

誰が普通で誰が普通じゃないのか

何が異常で何が異常じゃないのか


今回、大学で実験した。


結果、上々満足。


「気持ち悪い」
「嫌だ」
「怖い」

その感情を持っているのに口にも出せず逃げだすこともせず、ただにこわばっていた人たちを作り出せてよかった(悪


「パフォーマンスをしないで演劇的空間や関係性を作る」

ということはできたといえば出来ていたときもある、という感じだった。
後半、出演者がパフォーマンスに逃げたのが惜しかった。


だがしかし、誰が主演者で誰が一般人なのかという境目も分からなくて、人が混乱していた様などとても面白かった。


こういう実験は本当にしていきたい。

いろいろ試してみたいことがあるのだ。


久し振りに人を動かして演出らしきことをしたのだが、なかなかやはりたいへんだなあ、と思った。

うぐ。



でも、楽しかった。

次は、親子向けのお芝居しますっ。

宗教画をモチーフにした作品ですよー

不条理な愛で親子をお迎えしたいと思います。

ひひひ。
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by playgirl69 | 2007-12-11 18:28 | 表現

そうなのかなあ

俺の知ってる「リサ」と「黒女豹」が結びつかないんだよ。

人間は1人だって、考えてるなんて想像も出来ない。
俺が会ってるリサとは違うみたいだ。



って、感じの事を年上の地元の先輩に言われた。

たぶん、あの人は私の精神的なものに興味をもってなかったから、私のことが全然見えてなかっただけだとおもうんだけど。。。


何か、びっくりした。
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by playgirl69 | 2007-12-09 00:07 | 日常

演劇を哲学したくない

演劇論、演劇方法論を話していたら一年生に

「哲学みたいですね。仏教みたいなところもあるし」

と言われた

一年前は

「精神的、スピリチュアルな感じだよね」

と言われていたが、一年前とは少し違ったことぐらい私自身でも感じている。

私の中で、少しずつ変わってきているのだろう。

でも、私は演劇で哲学をやるつもりはまったくないし、もちろん宗教じみたことをしたいともこれっぽっちも思っていない。

ただ、私の思考や表現の根っこの部分に埋まっているのがそういう「感覚」なのだろう。だから言葉尻だけ聞くとそれらっぽく聞こえるのかもしれない。そんなつもりは毛頭無いのだが。

言葉ばかりが先行するからかもしれない。言葉で説明しようとするからかもしれない。
だから、哲学や宗教っぽくなるのかも。私の言語感覚と思考過程の問題だろう。


哲学っぽいといわれたときは少々焦った。
演劇を哲学しちゃいけないと思っているのになあ。
ただ、演劇の本質には迫りたい。だから哲学的にも宗教的にもなるのだろう。


恋愛って何?
付き合うって何?
っていろいろ同級生に質問攻めをされた。

いろいろ御託を並べてそれらしいことを言ったが、私自身もよく分かって無いしよく混乱する。
なんでもいいし、関係性と個人の問題だ、と言ってしまえばそれまでなのだが。


恋愛できなそうな私に聞くのがそもそもの間違いだと思うのだが。。。
ぽっかり空いてしまった。
恋愛には消極的になった。
相変わらずのようにみえるかもしれないが、確実に、私の心は死んでしまった。

人を愛することを、トキメキを、閉ざしてしまったのだろうか。
それとも、それに値する人がいないだけなのだろうか。


両方なのかもしれない。

どうでもいいや。

私が一生1人だって別に世界は困りはしないだろうし。

私だって適当に生きていくだろう。


さて、私は今日も忙しいのだ。眠らなければ。
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by playgirl69 | 2007-12-05 05:20 | 表現

幼馴染の人

たばこのにおいが染み付いた文庫本を読む。
彼が好きだという作家の小説だ。

(彼と言うのは別に彼氏の省略系でないことは言っておきたい。)

彼が好きだという小説だからだろうか、小説の登場人物や主人公の感情や行動の端々に彼の姿が見え隠れする。

たばこの香り。

彼の亡骸。

意識。


誰も本気で好きになったことがない。
他人に興味が無い。
人に踏み込まれたくない。
人に要求も見返りも求めない。
ただ関わって欲しくない。


「それが辛いなんて思ったこと無い。人に関わらないほうが楽だし」


なかなか癖のある男だ。
私はこういう男が放っておけない。恋愛感情とかそういうんじゃなくても、私はどうしても私のもつ人を好きになるあったかい心、を知って欲しいなと思ってしまう。それが彼らにとってとてもうざったいものだとも理解しているつもりなのだが、なかなかやめることができない。

しかし、最近の私はへこたれ気味で人にあまり干渉するのをやめてしまった。
ちょっと前の私なら「この人の孤独を愛してあげたいの」なんて言い出していたに違いない。
今はどんなにいい男が傍に居ても駄目なのである。前好きだった人以上に好きな人に出会える気がしないのだが、まあ、しかたない。それに彼は、私が入る隙間も無いほどの孤独。というか、バリアをこの男をもっている。本当に人を好きになったことが無い男の目を私に向ける。人に興味をもたず、人から興味をもたれることすら拒絶する目だ。

私はできるだけおどけてみせて、彼を笑わすことだけしていた。彼の笑った顔はとても素敵だ。笑うこと、人といることに対しては別に拒絶はないようだ。距離感が大事らしい。

陶器のような透き通った白さのつめの先まで美しい手が私の手に触れる。

「キューをこうやって持つといいよ」

手は私より暖かい。人間の体温を感じて少し安心する。


目をじっと見つめてしまう。彼は私の目をほとんど見ない。彼は私に興味を持たない。彼は自分の世界にだけ生きている。


「人は俺が淋しいやつだとつまらないやつだというけれど、俺はこれで十分幸せなんだ」


彼はそういったし、彼も十分これ以上なにもいらない、と言う感じだった。
いろんな人と出会って、人はいろいろと不満や欲求を抱えて生きていると強く感じていた。私もその1人だし、人はその孤独や欲求や淋しさを埋めるために行動したりしているとも思う。正直、彼にはそういう欲求や孤独や淋しさが感じられなかった。どんなに人を拒絶する人も、それに対する孤独感を持ち続けているものだ。彼には、孤独感はない。ただ孤独であるだけだ。それだけなのだ。

私は、その場の関係を埋めようとして、無駄な言葉ばかり発していた。
彼は私の話を聞いているような顔をして、聞いていなかった。お互いなんのために話しているのか、よく分からなくて困ってしまった。

孤独になやまない人間を初めて目の当たりにして、私はどうしたらいいのかわからないでいた。
人と人は孤独感を埋めるように人を求める。彼が人を求めない理由は、孤独感を埋めようとなどしないところからくるのだろう。俺は孤独だ、なんて思って眠れない夜などはないのだろう。だから彼は人を求めない。どうにかしたい、という欲求も無い。

本当にそうなのか?
本当は淋しいんじゃないのか?
本当は孤独なんじゃないのか?

私が踏み入ろうとすると、全速力で逃げられる。

「俺は壁なんだよ。ボール投げてくれれば跳ね返すけど、自分から投げたりはしない。それで十分だと思ってるんだけど、人はそれでは納得してくれないんだ」



出会ってから10年以上経つけれど、あのときから彼は人を寄せ付けなかった。

彼がこの先人と関わりたいと強く思うことがあるのだろうか。

彼が本当に誰も愛さずに死んでいくのか、気になるので少し離れたところで見守りたいと思う。
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by playgirl69 | 2007-12-03 03:18 | 日常

1人鍋とその孤独

一人用の鍋があるのだけれど一度も使ったことがなく、今日はなぜか使ってみることにした。

後輩の女の子は1人で鍋をするらしく、「1人で鍋なんて淋しくないのか?」と聞いたことがあったが、そんなことを聞いた自分を愚かだと振り返る。人は1人で鍋をすることがあるし、そんな人がいるから一人用の小さな鍋が市場に出回っているのだ。そして、私もその鍋を使う人間なのだ。

1人用のくせに鳥団子もなかなか丁寧に作りこむ。誰に食わすわけでもない、私の肉になるためだけの食事。わざわざ一人用の鍋を出す必要があったのか?普通にごった煮にしても変わらないんじゃないか?そんな不安には目を向けず、人参を丁寧にもみじ型に切り刻む。

人参を切り刻む間、私の脳内から一切の浮世事が消し去られる。ただ、人参と向き合う。人参をいかに美しくもみじに仕立て上げるか、いや、そんなことすら考えていない。私の意識はどこか遠くの方で人参を切る私を見ている。人参を切る私自身には意識は無い。いや、見てすらいない。私は、何も考えずに、ただひたすら人参を刻んでいた。私自身の料理をする楽しさのひとつに、無我になれるというものがある。何も考えなくてよくなる時間。それが料理をするときだ。まあ、これが人が介入してくると人を意識せずには作れなくなるので、いちいち、「お腹へってるかな」「味付けは濃い目が好きかな、薄めかな」などいちいち考えてしまうので、1人のときだけに限られた楽しみなのだが。


1人で鍋をつつきながら、1人暮らしを始めたばかりのころ、寮の中で1人泣いていたことを思い出した。1人でいることがあまりにも淋しくて、家族を思い出して泣いていた頃。何故あんなに淋しかったのか分からなくなるぐらい、今の私は1人でいることに慣れ始めていた。1人で食事をし、1人で映画をみて、1人で旅行し、1人でカラオケにいき、1人で焼肉屋にいき、1人でパスタ3人前分を頼んだり・・・・と後半は逆に意地になって1人でどこまでできるかチャレンジみたいなことになっていた。

今回もある意味チャレンジだった。

1人で鍋をし、しかも無駄に美しく美味しい鍋を作って1人で食べるとどんな気持ちになるのだろうか。

と、まるでダイバスターの研究員になったかのような気持ちで調査を開始したという感じだ。(わからんやつはYou tubeで検索しる!)


結果は、まあ、ダイバスターを想像してもらえるといい。







1人で生まれ1人で死ぬ。
恋人や家族とだって、どこまでいっても他人であるのだ。どこまで行っても私は1人だ。別に悲観してるわけじゃない。ただそうである、ってだけだ。それだけのことなんだ。

気分的な「孤独」にはあまり興味がない。
普遍的、根本的な「孤独」に趣を感じる。

気分的なそれらに悩まされている人には興味がない、といった方が早いだろう。人に認められることを望み、空っぽで埋まるはずの無い根本的な孤独を社会的な概念が生んだ装飾品で見えなくさせて、自分自身を目くらましさせることに一生懸命になる人を見ると嫌な気分になる。そこに自分自身も見える気がするからだろうか。私も同じようにもがいているのだろうか。どうだっていいじゃないか。




さて、小説の続きでも読もう。
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by playgirl69 | 2007-12-02 22:42 | 自己